未題

短編より短い短編小説

愛しのサリンジャー

 自殺した山田花子に足りなかったのはただひとつ演じ切るということだ。あらゆる状況においてひとつの膜を張りつけたままいつでも舞台に立っている意識さえあれば、ひとは致命傷を避けることができる。
 一度開け放ったら最後無防備、丸腰であらゆるひとびとの欲求を全身で受け止めていれば、ある日突然壊れる。彼女の場合には母とのやり取りによる幼児性から抜け出られないままその生涯を終えた。

 ひやりと冷や汗をかくのは他人事ではないから、としか言いようがない。

 内向する時間をひとは必要としながらも、その苦悩に堪えきれず他者を求める、或いは自身が満足しさえすれば一旦は事足りるのだろうが、おそらくはその内圧がそうさせなければ果てても果ててもキリがない。

 「サリンジャーがきらい。」

 わたしが言うと、それは君の個人的な経験による怨みの産物だな、と彼は言った。

 「けれどいま、わたしがやっていることはサリンジャーのそれと通じてきている。」
 「だいたい君はサリンジャーを失ったのち、彼について考えすぎなんだよ。」

 何年引きずるつもりだ、と言われたのでさあ、とわたしは答えた。

 「それほど魅力的な男だったのか。」
 「否。」
 「じゃあ、なんで。」
 「彼をとおして自身の欠落をみていた、そういうことだとおもう。」

 言うと、ああそうか、と彼は言った。

 「だいたい、サリンジャーになんて恋するものじゃない。君は彼の求心力にまんまと引き寄せられたんだろうけれど、君自身がいま作家になってよくわかっただろう。彼のそれはポーズだよ。本気で君を求めちゃいなかったんだ。」

 そうだね、とわたしは言う。一年前なら泣き叫んでいただろうことばに痛みは感じない。特定の意識が時間経過により霧散し、いまは涙だけが残っている。とても特殊な状況だな、とわたしはおもう。

 「君はまだ彼に会いたいとおもうか。」
 「おもわない。彼はもう別人になっている。」
 「ではなぜそこまで考える。」
 「ようやく整理する準備ができた、わたしはいま、知らないうちにあらゆるひとから癒しを受け取っている。そして、過去の苦しみにはいる決断ができた。」

 彼はそうか、と言った。

 「考えない選択肢は存在しないんだな。」
 「もちろん。」

 傲慢だな、と彼は言った。臨むところだ、わたしは応えた。

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