未題

短編より短い短編小説

やりすごし

 我が家には炊飯器がない。炊飯器どころか、鍋のひとつもない。言うと彼は、ひとまず包丁でも買ってみればと言った。わたしはそれもそうだとおもい、大した料理をしないにしろ、キャベツくらい千切りするに越したことないな、と納得した。

 「けれど包丁って高いよね。」
 「そうでもないよ。いまはなんでも百円ショップで買える時代さ。」

 歩きながら涙がこぼれて、わたしは何度この既視感と対峙するんだろうとおもった。ひとりになると途端にだめだ。なにかから逃れるよう歩きつづけなければならない。なにが哀しいとか、辛いとかいうより、ひとりでに零れ出るからたまらない。
 そんなときは彼のことを思い出し、なんとか自制する。自制ついでに思い出したので、道すがら百円ショップに寄ってみた。
 彼の言ったとおりだった。たくさんの包丁が並んでいる。どれにしようかな、おもう前に心臓がどくんと脈打って、わたしの思考は一発でショートした。

 突然湧き上がる衝動にキッチンへ駆け込むと小ぶりの包丁を手に取り、わたしは自身の腕を思いきり切り刻んだ。鮮血が飛び散る。

 あまりにもリアルに思い浮かんだその情景におもわず身震いすると同時、一目散に駆け抜けるとわたしは店から飛び出した。

 だめだ、だめだ、だめだ、おもう。
 しんでしまう。
 いつでもどこでもわたしの脳裏に死の選択が浮上する。いつだって、どこだって、この凶器ひとつあればおわらせることができる。

 こわい、こわい、こわい、おもう。

 「老眼、老眼、ははっ、老眼。」

 なにやらぶつぶつと呟く男性と交差点ですれ違いざま、わたしは一瞬同調する。常識的な人間を正常とするならばいまのわたしは老眼と呟く。そのほうがずっと正常だ、おもう。わたしは、正常だ。

 自らを傷つけなければ時間の経過に堪えられない、或いは自らをなるべくいまに繫ぎとめるため、描く、描く、描く。

 だれか助けて!!!
 こころが叫んでいる。けれど助けられない。知ってる、そんなこともう知ってる。あとは、なんとか、この内面から逃れるしかない。けれど逃れられない。それも知ってる。

 「まだわからないの、どうすればこの恐怖に打ち勝てるの、たぶん勝てないの、勝てない自分を責めないの。」
 落ちるなら落ちるところまで落ちきろう。落ちてからまたやり直そう。

 だあれもいない自宅のドアを逃げるように抉じ開けて、息を切らしてわんわん泣いてなんとかきょうも乗り越えた。いまはそれでいい。いまはそれがいい。

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