未題

短編より短い短編小説

お裾分けの輪

 ふんわりタバコの香りがする。となりに座るサラリーマンが一日しこたま背負った疲れを、わたしの肩にあずけている。お疲れさまです、おもう。お仕事ありがとうございます。
 たまたまとなりに座った彼の日々の事情など知らないけれど、時折がくんと頭を落とすその仕草を愛おしくおもう。みんながんばっている、みんな闘っている。もちろんわたしも。きょうもお疲れさまでした。

 くらくらする目眩をひと度忘れて、彼の瞳を思い出す。はじめは遠慮がちにやさしみを含んだそれが、きょうは鋭く光っていた。かっこいい。生きる意思を携えた人間はかっこいい。
 そろそろエンジンがかかってきた。ざんねんながら世渡り上手ではないけれど、代わりたくさん、助けてもらっている。ふと顔を上げると、先ほど席を譲ってくれたおにいさんと目が合う。にこり微笑むと向こうが照れる。かわいい。

 小手先の技術がすきではない。それらしくみせる術は必要ない。どんくさくっても、不器用でも、必死に生きるその姿にこそ生きる者の本質がある。

 それでもぐさり、太ももに突き刺さる刃物から滴る鮮血をみるに、生きるとはこういうことだ、そう宣ううちは、感じているうちは、自身の域を超えないだろう。これまでに経験したいかなる誤解も、屈辱も、やるせなさも、客観的真実として受け取ってもらえなければ意味が生じない。

 だからわたしは信じるに怯えている。
 内包された苦しみがいくらこの身を切り裂こうとも、わかってくれるひとはだれもいない。これは否定ではない。絶望でもない。自身にさえとなりの人間のいかなる苦しみをも理解することが困難なように、本来ひとは他者のきもちを完全には知り得ない。

 「それでも手を取り生きていきたい。」
 少女はぽつりと呟いた。

 だれも信じなくなったらたしかに生きるのは楽になった、けれど、大切ななにかを見落としている、そして、その見落としたなにかを探しまわるうち精神は疲弊していく。そういう削り方は長くはつづかない、そうおもう。

 「ねえ、きょうはたくさんのやさしみに触れたよ。だからこの喜びをお裾分けするね。」
 わたしが言うと、彼はありがとう、と笑った。

 なるべくならあなたが幸せでありますように。

 これまでうまく注げなかったちょっぴり歪んだ愛情を開け放ち、素直に、すこしずつ配っていく。そうして言われたありがとうがわたしの人格をつくっていく。みんなありがとう。これからもよろしくお願いします。

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