未題

短編より短い短編小説

高圧的説法

 いまの幸せはあたりまえじゃない。あたりまえだとおもった瞬間、わたしは腐る。ひとの才能なんて不確かなものはちっとも信用できないけれど、もしこんな環境を手にしたとして、それが長らくつづいたとして、だとしたら人生において世界のだれをも魅了する一篇の詩を書くことよりいまこの瞬間にこそ至上の価値ある、わたしはそうおもう。

 「ありがとうとごめんなさいを言えるおとなになりたいです。」

 わたしが言うと、君ってたまに小学生みたいなこと言うよね、と男は鼻で笑った。仕事のできるその男はわたしより12も歳上だった。饒舌に人生を説く男だった。

 「で?俺を呼び出した理由はなに?」
 「この前のお礼が言いたくって。」

 なんだそんなことか、男は言う。

 「てっきり俺に告白するつもりかとおもった。」
 男の顔がそう言っていて、わたしは小首を傾げた。このひとはなにか勘違いしている、おもうけれど、違和感はことばにならなかった。

 「将来のことでご相談です。」
 「たしか君は表現者になりたいんだっけか。」

 「表現のことなら任せてよ、俺原稿読むの得意だから。」
 またしても男の顔がそう言っていた。

 「で?なにを表現したいの?」
 「“なに”……?」

 わたしが言い淀むと、君ってばほんとうにバカだなあ、と男はおかしそうに笑う。

 「なにかあるだろう。俺なら、そうだなあ。スポーツにおいて日本の文化に貢献するべくその魅力を伝えていきたい、かな。」

 はあ、とわたしは言う。

 「“なに”とかは、ないです。けれど自分の奥底に猛るなにかがあって、それを外に出さないと死んでしまう。」

 えっと、その、太宰治みたいなものです、わたしが言うと、それまで品定めするようこちらをみていた男はぶふ、と盛大に吹き出した。

 「君は正真正銘の馬鹿か?太宰治といえば現代に名を残す有名作家のことじゃないか!その方と君とを比べるなんておこがましい。おこがましいにも程がある!」

 男は大笑いしながらまるで喜劇でも観ているように言った。わたしは内心むっとしながら、それでも本気です、と言った。

 「君さ、もうすこし考えてから発言しなよ。太宰治は一流の作品をこの世に残した。けれど君はどうだい?この世になにひとつ残していないじゃないか!」

 でも、とわたしが言おうとすると男は間髪いれず言った。

 「なんにもないなら、せめて口を噤んでおくんだな。」

 わたしは閉口した。男の言うとおりだった。悔しかった。悔しくてやるせなかった。たった3年前の出来事だ、とわたしは苦笑しながら、あの男とはもう一生口をきくことはないだろうとおもった。