未題

短編より短い短編小説

がまん。

 殴られると安心するんだ、言うと、彼女はとても危険な思想ね、と笑った。ほんとうにそのとおりだね、わたしは答えるけれど、この思想に誇りをもつ幼い少女の存在を知る。

 はじめてあの男に殴られたとき、わたしはなにやら、自分がとんでもないことをしでかしてしまったんだとおもった。なにかにつけて手を出されはじめると、その悪行が激化している自分の存在を憂いた。
 こわかったけれど、殴られるものは仕方ない。男はよく「殴るほうだって痛いんだ」と言った。また、君との痛みを分かつため物では決して殴らないんだ、そうも言った。

 高校生のころ何気なくこのはなしをすると、それって虐待だよ、と友人に真顔で指摘された。わたしはそんなことないよ、と笑った。実際男からは愛を感じていた。なに不自由なく育ててもらった。食うにも困らなかった。

 わたしが21歳のころ、男は死んだ。

 大学にはいかなくなった。いく理由がなくなったからだ。ついでに言えば外に出る理由もなくなったので、いつでもテレビをみてはごろごろしていた。なかなか快適だった。
 けれどある日、朝起きてリモコンのスイッチを入れた途端、映し出された画面があんまり簡素で、味気なくって、その後むくむく湧いてきた焦燥に足を捕らわれてから、日常という概念が一気に吹き飛んでしまったことをよく覚えている。

 「罪悪感ね。」
 彼女は言った。なんでもお見通しだね、わたしは言った。

 「それからはずっとこんな感じ。」
 わたしは肩をすくめてドンキーコングの真似をした。彼女は心底おかしそうに微笑むと、わたしの腫れ上がった頬をやさしく撫でた。

 「ありがとう。あなたがいてくれてよかった。」
 わたしは言った。

 「そうじゃないでしょう。」
 彼女は哀しそうに目を伏せた。

 「わたしはあなたのことをほんとうの意味では助けられない。一時の止まり木のようなものよ。」

 わかってる、今度はわたしが目を逸らすと、彼女は慈しみを込めた表情でほら、こっちみて、と言う。

 「いい?ちゃんと見つけるの。」
 「……うん。」
 「準備はできたんでしょう?」
 「……うん。」
 「じゃあしっかり構えてなさい。」
 「……うん。」

 よし、と言った彼女のことばにまた恐怖が過って、わたしは慌てて彼女の右手を掴んだ。

 「お願い、ぎゅってして。」

 だめ、と彼女は幼いこどもをあやすよう言った。わたしはしゅんとしてからわかった、と答えた。

 「あなたならきっと乗り越えられるわ。」

 やさしく力強く響く声をききながらわたしはねむった。翌朝はぱっちりと目が覚めた。

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