未題

短編より短い短編小説

かさぶた前

 「たのしかった?」

 聞かれたので満面の笑みで答える。

 「たのしかったです!」

 けれど彼女はなにかを察したようこれは仕事だから、と言った。たしかにそうだ、とわたしはおもった。底なしの無垢で答えたことを一瞬後悔した。
 正直に言えば、わたしの仕事に対する概念は去年の2月上旬、引き出しの奥に押し込めたまま放置されたままだ。そして、もう二度と引き出すことはないだろう。
 とはいえ、彼女の心理は想像するに的を射ているともおもう。何事もたのしみすぎることは、時に大切ななにかを見落とす慢心となるものだ。わたしは幼いころの無邪気な罪を思い出しながら車窓を眺めた。

 なにもかも上手くいきすぎる状態は危険だ。そのものより、現状を自身の能力によってのみ評価する自分自身が危険だ。

 はあ、とため息を吐きおもう。もしかしたらわたしは調子に乗ってしまったのだろうか。ようやくみた陽の光があまりに眩しく、そしてあまりにあたたかいから、幸せに浸って忘れてしまったのだろうか。

 帰宅し、届いた段ボールを開けるとあの日の青色をしていた。わたしは目尻をしょんぼりさげ、おもわずこぼす。

 「君、いつまでわたしについてくるつもりなの。」

 もちろん返答はない。昔ほどの憎しみは湧いてこないけれど、慈しみのこころを取り戻せるわけではなかった。
 わたしは段ボールからあの日の青色をしたかけ布団を取り出した。懐かしい匂いはもうしない。既に過去とは異物のものになったそれをベッドの上に広げながら、皮肉にもこれさえあればわたしはいつでも後ろ向きになれるとおもった。そしてそれは、人生にとりすくなからず必要なことなのだとおもう。

 わたしは旅に疲れた目を擦りつつ、ひとまず机に向かった。そして歴史の教科書を開くと、34ページの年表一覧をノートに書き写し、声に出しながら復習した。テストがあるわけではなかった。けれど毎日がテストだった。
 波に乗っているときこそ、ひとは注意しなければならない。継続を怠れば、容易に堕落する。あの苦しみを味わうのは人生で一回、一回ぽっきりで十分だ。もう十分なんだ。

 勉強がひと段落すると、わたしはきのうまでつかっていたぺらぺらのブランケットを下に敷き、かけ布団に潜り込んだ。想像以上にあたたかくってびっくりする。かけ布団ってこんなにやさしかったんだ。
 そして、このあたたかみに解けるよういつかわたしの憎しみも消えて、純粋に彼の幸せを願えるようになればいいとおもった。