未題

短編より短い短編小説

はじめの一歩

 きょうはニュウシャシキだ。電車に揺られながらそわそわと落ち着かないこころをおさえて、なんとか社会人三年目にみえるよう、背筋をぐっとのばしてみた。見慣れない外の景色を横目でみながら、きょうからシャカイジンなんてすごい、と改めておもう。
 大学を中退してからというもの、なることをあきらめていたシャカイジンが決して、キラキラした夢ばかり詰め込んでいる職業とはおもわなかったけれど、それでもなりたいものにようやくなれた嬉しさでこころは弾んでいる。

 これでわたしはようやく、ひるまに外を出歩くことができる。自分が何者か、ひと言で答えることができる。その特典が今後のシャカイジン生活に際してどのくらい有効かはよくわからなかったけれど、それでも、ずっとずっと答えられない苦しみを抱えるより遥かに健康的におもえた。

 「シャカイジンなんてだせえよ。」

 彼は気だるげな猫背を携えレジを打ちながら、わたしに言った。

 「なにかに雇われるなんてだせえ。なんなら俺はニートでいい。ニートのほうが夢がある。」

 たしかに、とわたしは言った。

 ニートには夢が詰まっている。無限に広がる精神世界のなか、ひとは自由になれる。創造の特権が与えられる。器の存在を無視し、この世の淵を覗きみることができる。すべて自らの審美眼に委ね、概念の糸口を手繰り寄せみた世界はきっと美しい。

 「けれどシャカイジンにも夢はあるよ。」

 わたしが言うと、なんだよおまえ、もうシャカイに毒されたか、と彼は言った。
 そうかもしれない、とわたしは答えた。

 いまのわたしに彼のことばは響かなかった。乱暴に言えば、どうでもよかった。わたしが彼にとりどんなに惨めにおもえても、不思議なことにわたし自身は、惨めさを微塵も感じていないのだった。

 「それでもシャカイジンって素敵だよ。」

 彼は黙った。強がりを内包した孤独にみえたそれも、彼にとりキラキラした夢が詰まっているのならやはりそれでいいのだとおもう。わたしがいま、あらゆるひとの願いを、夢を、背負い立つことに魅力を感じていることに変わりはない。

 「ニートも、シャカイジンも、おもったよりちがいはなかった。必要なのはきっかけだった。」

 なんだか月並みだね、わたしが言うと、月並みだ、と彼は言った。突き放すことばにさびしさを感じながらも、おもい、切り、足を踏み入れた世界は想像以上にあたたかく、わたしは幸せを噛みしめた。