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未題

短編より短い短編小説

壊れた時計

 ひさしぶりにきいた親戚のおじちゃんの声に、わたしはようやく自分の居住まいを正せる日がきたんだ、とおもった。

 「おじちゃん、ひさしぶり。あのね、ありがとう。よろしくお願いします。」

 おじちゃんは噛みしめるようによかったなあ、と言うと、まさか囲碁棋士なんてねえ、と感慨深く呟いた。

 「だいぶ時間がかかってしまいましたが、なんとか一年はがんばってみます。」

 照れながら言うと、がんばれよ、と笑われた。もう一度ありがとう、と言ってから電話を切る。

 不思議なことに、故郷を離れたいまのほうが、ひとのあたたかみを感じる機会が増えた。馴染みのともだちに囲碁棋士になった、と伝えると、じゃあ囲碁番組は要チェックだな、と笑われた。わたしは気が早いよ、と言いながら、やはりこれまで気づかなかった幸せみたいなものを、こころに深く刻み込む。
 忘れないように、忘れないように。ひとりで成立する命なんてないんだから。

 あのころは、おんなじひとり暮らしでもいつでもさびしいとおもっていた。わたしはてっきり、その悲哀は天井に競ったロフトが邪魔なせいだと勘ぐっていた。夜中に漕ぎ出した自転車も、叫びながら道端に放った苦痛も、いま振り返ればそういうことではなかったらしい。
 それでも、あのころは自分を傷つけることでしか自分自身を見い出せない、酷く混沌とした状況にすっぽりはまりこんでしまったようだ。殺される懸念をいつも抱えながら、殺人者に自分の価値を尋ねた。洗脳とか、幻覚とか、あらゆる世界を垣間みても、その煌めきには逆らえなかった。

 「ひとを信じないほうが楽だよ。」

 だから、呟かれたことばにわたしは心臓をぎゅっと掴まれるおもいがした。

 「ぼくの時計の針はあのころからずっと止まったままだ。」

 なにがあったか、なんて、野暮な質問はしたくなかった。なにがあったか、なんて、大した問題にはならなかった。彼は苦しんだ、十分苦しんだ、そしていま、自ら時計の針を止め休んでいる最中なんだ。

 「動き出すといいですね。」わたしは言った。彼はやはり悲哀を含んだ瞳でそうですね、と頷くと、黙ってまた、歩きはじめた。わたしはその背中を無性に追いたくなった。追って抱きしめて、大丈夫、大丈夫、伝えたくなった。

 けれどいまはまだ、追えない。

 掴んで折れた針は二度と元には戻らない。だからこそいまは願うだけだ。再び彼の世界が動き出しますように。