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未題

短編より短い短編小説

ちょっきん!

 背中をあずけた薄い壁の向こうからは隣人の鼻歌がきこえてくる。すぐとなりには大切なひとが、なにやら熱心に書きものをして。そうしてわたしは川上弘美を読んでいる。のどかな昼さがり、そのすべてがいまここにある。

 なんだか無性におかしくなり笑っていると、大切なひとが首を傾げた。
 「どうしたの?」
 「ううん、なんでもない。」
 あたたかくってあたたかくって、わたしはこのまま溶けてしまってもいいとおもった。

 人生って不思議なものだ。まるでそれまでの日々が幻のように時が動き出し、絡み合う瞬間がある。

 いつから変わってしまったのかわからない。すこし前でも後でもいけない。そうおもい地団駄を踏めば距離の離れてしまうことも、肝心なところで素直になれず歩み寄りを間違えては、壊してしまうこともある。

 「きみはぼくのいちばんじゃない。」
 「わたしはいちばんだよ。」

 「ぼくはちがうよ。ぼくはきみにこの命をあげられない。ぼくはきみにせいぜい片腕くらいしかあげられないんだよ。」

 それで十分だよ、わたしは叫んだ。

 「きみはいまきみのためにそう言ってる。」

 そんなことない。「それにわたし、あなたの命なんていらない。」
 「ほら、きみはまたきみのためにそう言ってるんだ。」

 なにを言われているのかわからなくなった。哲学的な会話の応酬はそれ自体の意味合いを曖昧にしてしまう。そうして煙に巻かないで、文学の世界に逃げないで、わたしはあなたにただ死んでほしくはないだけなの、そんなことも頼めないの。

 「ぼくにとって愛はいちばんじゃないんだよ。ぼくにとってのいちばんは、」

 学食でとなり同士座り、お互い「はじめまして」と挨拶を交わした。細い目がたびたび照れ笑いする。抽象的概念の共有、その感覚にようやくわたしの針が動き出した瞬間。

 「ぼくだよ。」

 あのときどうして触れてしまったのか。だめだとわかっていて、こたえははじめっから決まっていて、それでも自分なら、このひとを本の世界から引っ張り出せるかもしれない。傲慢にも浅はかにも純粋にもそうおもった。

 「至上のものを書けたとき、ぼくは死ぬ。」

 さようなら、大切なひと。

 もう必要のなくなった6畳ひと間のアパートを引き払い、毛布ひとつだけ背負ってわたしはあの家を出てきた。そしてきょう、わたしはその毛布を切り刻み半透明の袋ぎゅうぎゅうに詰め込むと、燃えるごみに出した。