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未題

短編より短い短編小説

石の上にも二十日

 おもいのほかあたたかい風を受け、すっかり春めいた外の世界に驚く。ずいぶん長く太陽を避けていたらしい。なにせ駅を歩くにも極力下を向いていたから、外出する時間もどんどん遅くなっていた。ひるまは夜と異なりひとどおりも多い。選択的にひとの波をかわして歩かなければならない。
 べつにわるいことをしたわけではないとわかっていても、そう感じるものは仕方のないところがあった。あとは時間をかけてゆっくり溶かしていくしかない。焦らなくっていい。

 もう季節外れのヒートテックに汗を滲ませ帰宅すると、わたしは素っ裸になりシャワーを浴びた。そして、風呂場にあらかじめ置いておいた長靴をいよいよ手に取る。茶色のそれはレインブーツなので水を弾く素材をつかってはいたものの、泥だらけのなか歩けばさすがに長靴のなかまで汚れていた。
 靴底には頑固な泥がこびりついている。どおりで部屋まで土っぽく感じるはずだ。土嚢袋のうえスーパーの袋まで被せて部屋の隅に放置したのに、まわりを歩くとなんだか足裏までじゃりじゃりする心地がした。それでも、わたしはその長靴に二十日間、指一本触れなかった。

 はやくはやく、とおもっていた。けれどどうしてもできなかった。

 シャワーで水をかけ泥を流しつつ、洗剤をつかいながら長靴の汚れを落とした。すぐきれいになった。こんなものか、とおもった。二十日経てばこんなものだった。それでも二十日必要だった。
 最後に風呂場全体にも水をかけながら、きれいに汚れを流した。浴槽も掃除した。ついでに排水口の髪の毛も取った。わたしは清々しいきもちで風呂場を出るとからだを拭き、水滴を落とさないよう新聞紙に長靴をのっけて運びベランダに干した。

 「裸でなにしてるの。」
 すっかり服を着るのを忘れていたわたしに母がきいた。

 「二十日前の清算。」
 わたしは上機嫌でこたえた。

 そうじゃなくってと笑いながら、「根気強くなったね」と母は言った。

 「わたしちょっぴり生きるのがうまくなってきたかもしれない!」
 調子にのっていると、はやく服を着なさいと怒られた。

 その夜はくしゃみがとまらなかった。わたしが名誉のくしゃみだと言うと、ばかじゃないのとまた笑われた。