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未題

短編より短い短編小説

身の丈の習慣

 わ、と突然あがった叫び声に一瞬心臓が飛び出るかとおもった。脳裏にいつまでもこびりつく悲鳴にも似た声色に切迫した現実を感じ取る。どうしたの、とさえきけない。とにかく母は、なにやら封筒にはいった請求書らしきものを手にわなわな震えながら、絞り出すよう呟いた。

 「55万円、勝手にカード切られてる。」

 えっ、と息がとまる。どういうこと、と考えると見当はすぐについた。この前のあれだろう。

 「財布すった犯人だね。」
 「きっと、そうね……」

 母はこの前財布の盗難に遇っていたのだ。

 「でもカードはとめたんじゃなかったっけ。」
 「だとおもっていたけれど、まだ残っていたのね。このカードは一度もつかっていなかったから、存在さえ忘れていたみたい。」

 言いながら、母はあからさまにおろおろし部屋のなかをいったりきたりしはじめた。

 「とにかく、カード会社に連絡じゃない。」
 「そうね、うん、そうね。」

 あんまりか細い声を出すので、なんだかわたしまで辛くなった。母はいま自分の不注意を相当嘆いているだろう。居たたまれなくなって、わたしは自室へいくと金色のカンカンを手に取った。おもいのほかずっしり重い。

 「あのね、これ。」

 そして母のもとに戻ると、そのカンカンをはい、と差し出した。

 「なあに、これ。」
 「貯金箱。」

 そのカンカンは、わたしが去年の6月22日からはじめた貯金用の貯金箱だった。毎日これに1枚ずつ100円玉をいれるルールをつくっていて、きょう、3月28日でちょうど2万8千円貯まっている貯金箱だった。

 「でも、ごめんね。55万円には、とうてい届かないけれど……」

 そう言ってわたしが俯くと、母はふふ、とすこしだけ笑った。

 「ありがとう、きもちだけで十分よ。」

 母はカンカンを受け取らなかった。

 自室に戻り、行き場のなくしたカンカンを改めて眺めた。カンカンには太文字で“10,0000 CAN BANK”と表示されている。そして裏には、“すべて500円玉で貯金すると約10万円貯めることができます。”と説明書があった。

 わたしは財布から100円玉を取り出すと、カンカンのなかにいれた。

 時刻は22時をまわっていた。結局カード会社には連絡がつかなかった。請求書を確認したのが21時すぎだったので、きょうはもう営業を終了してしまったようだ。わたしはいつもどおり外に出ると日課のランニングを行った。いつもより背筋がぴんとのびた。骨組みの一端がまたひとつ戻ってきた。